新橋浅間神社

主祭神について

本殿の主祭神と記念碑

新橋浅間神社の社歴

 古代より富士山の噴火は活発で、最も古い記録としては天応元年(781)のことが残されている。延歴19(800)年・同21年(802)年・貞観6(864)年・承平7(937)年・長保元年(999)と二百年間の間、数次にわたって噴火があった。

その後、長元5年(1032)・永保3(1083)年・元弘元年(1331)・永正8(1511)年・永禄3(1560)年・寛永4(1627)年・元禄13(1700)年・宝永4(1707)年とあって、富士山麓に住む人々はどんなに富士山の鎮静を願ったことであろうか。

 そこで富士山頂に、火を鎮める神さまといわれる木花咲耶姫命をお祀りした。ところが古くは富士山全体が御神体とされて山頂に社殿を設けることなどはしなかった。
後に富士宮の桜ヶ丘に浅間(あさま)神社を建立したが、この神社の御神体は富士山であって、拝殿から山頂を仰ぐことができるようになっている。浅間(せんげん)神社とも呼び富士宮浅間神社のことで、本宮となっている。山頂に建てられている神社を奥宮という。
浅間神社は山梨県、静岡県に多く御殿場市内だけでも大きな神社が十五社もある。新橋の浅間神社・古沢の一幣司神社を初めとして、二枚橋・西田中・北久原・駒門・大坂・神山・板妻・保土沢・永塚・北畑・川柳・印野・六日市場などにある。
まさしく富士山のあるところに浅間さまあり、といえよう。
神社の創立年というのは、しっかりした記録がないのではっきりしないものである。新橋浅間神社の場合も、古い記録が残されていないので、伝承によって創立の年代を推定するほかはない。
古くから伝えられた説によると、応保元年(1161)に熊野衆徒の鈴木氏になるものによって造営されたとされている。 また他の伝承によると、建久4年(1193)に源頼朝が富士の巻狩りをしたとき創建されたものとされている。いずれにしろ、御厨地方では二岡神社とならび、古く創建されたものと言えよう。
延保8年(1680)新橋村の村鏡差出長によると、五社浅間宮とかかれてある。五社とは浅間・神明・八幡・天神・愛鷹大明神のことである。 このころ社の大きさは長さ二間三尺で横が一間一尺のこじんまりしたものであった。しかも屋根は茅葺きであったが、それでも他の社にくらべれば大きい方であった。
神社の森は広くて、東西二丁(120間)、南北40間で一町六反(1.6ヘクタール)もあった。けれども雑木林であったといわれている。
その後、鮎沢区で所蔵している享保6年(1721)の村絵図によると、浅間神社のほかに八幡社と子神社が描かれてある。この八幡社は若宮八幡のことである。
さらに享保18年(1733)寺社書き上げによると、五社浅間の境内は従前と変わらず、

起立何年以前に御座候哉知し申サズ百姓勘兵衛抱エ

とかいてあるように、創立年は判然せず、百姓勘兵衛が鍵取りしていた。

 また天明5年(1785)の宗門人別一紙目録によると五社浅間宮は組頭三郎左衛門の抱えとなっている。そのほかに若宮八幡宮・浅間宮・日月宮・足高宮・山神宮・子神宮の六社があった。

その三年後に山祗宮(山神社)を建立し、寛政4年(1792)に山王大権現を建立し大山咋神を祀った。

下って文政12年(1829)には風神社を建立して天下泰平・難風悉除の祈願をしたが、天保8年(1837)以降は、従来の社の再建をしている。この年は地租神社を再建して五穀豊穫を祈り山王大権現社を再建して万民安穏を願っている。

弘化5年(1848)には、大国主命社、山祗命社を再建し、嘉永5年(1852)には地神社・山王大権現を再建して、ともに天下泰平と氏子安全を祈願している。

江戸も終わりに近い安政5年(1858)には京都の吉田神社から御鎮礼をいただいて、はやり病や悪病除けとしている。

明治初期になって廃仏毀釈の影響もあって、明治10年(1877)に、各社が合祀された。日吉神社・土徳元災神社・大山祗神社・埴安命社・風神社・大国主神社などがそうである。

その後、明治39年(1906)に屋根の葺き替えがあり、下って昭和11年(1936)に宝物庫が造営された。さらに昭和17年(1942)に浅間神社殿が大修理され遷座祭が執行された。

浅間神社境内にある記念碑

 往持、富士山の東から登る道は、須走口と須山口とであった。ところが御殿場村にある旅館の富士屋へ養子に入った清後村の佐吉は、北久原から仁杉を通って中畑へぬけて、宝永山で須山口といっしょになる登山道を切り開いた。それが明治16年8月に完成し、西田中の八幡宮境内で盛大に開道式が行われた。この便道を富士山東口とした。 そこで急遽、西田中八幡宮へも浅間神社が必要になり、二の岡神社内にあった浅間さまを合祀することにした。やがて明治22年(1889)に東海道線が開通し、新橋に御殿場停車場ができると、登山客は駅へ降り立って登山することになり、翌23年には停車場から萩原・ぐみ沢を経て甲州街道に出て、中畑へぬけるように道路が変更された。その富士山東表口便道開鑿記念碑が境内に建てられ伴野佐吉の功績をたたえている。

大正2年(1913)7月、出発点が太郎坊で決勝点を頂上にした第一回富士山登山競争が時事新報社の主催によって試みられた。

 国文学界の泰斗山岸徳平博士は講学の傍ら体育界にも大きな力を寄せられた。霊峰富士へは大正6年7月、東京師範学校在学中富士登頂マラソンに出場以来、毎夏数回登頂し昭和40年8月9日御殿場口からの登頂100回の記録を樹立せられた・・・。と碑文に刻まれている。この碑は学習院の生徒や知人が建立したものである。
 江戸時代には八百八講があったといわれているが、これら講社の人々は金を積み立てて交替で富士登山をした。道者と呼び、白衣に手甲をつけ、脚絆をまいた姿で、六角の金剛杖を手にして鈴をならし「六根清浄」と唱えながら登山したものである。その講の名を石に刻んで建碑をしたら、玉垣に刻んで神社に寄進したものが残されている。新橋浅間神社の杜の周りは次第に開けて、近在にあった石仏や塔がこの境内を安住の地として置かれてある。庚申塔・五輪の塔・常夜燈などが多く数えられる。

富士山・浅間信仰

 大古の人々は静まり返った美しい富士山に華麗な婦人を見出し、火を噴く富士に気強く炎の中で子供を生む姿を想像し畏敬の念を払うと同時に、富士そのものを木之花咲耶毘売命とし、男性的な愛鷹を瓊瓊杵命と崇めたもので、この心は今の日本人の心ともなり、富士・浅間信仰とにつながっている。

桓武天皇天応元年(781年)歴史上に表れた最初の大爆発から、宝永4年(1707)に到るまで富士は30数回を数える大爆発を繰り返し、国家は、富士の神の存在を重く見て、富士山が爆発する度に、神位神格をあげて行った。

奈良時代・平安時代ともなると、富士山・浅間信仰は益々発展し、富士に登山すること自体が、心身を浄め、天下の泰平五穀の豊饒を祈念することとなり、富士の恩恵に浴することは平安貴族の垂涎の的であった。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、富士の裾野の鮎沢に巻狩を行うに当たり、浅間神社に多くの寄進をなし、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を勧請して合併し、大御神の天野氏と鈴木氏には夫々、十里木を通じ、甲斐に向かう街道、黄瀬川より竹の下を通り足柄に到る街道の管理を委託した。 其の後源実朝・北条義時、足利尊氏などは奉幣を献じて居る。

 慶長14年己酉(1609年)徳川家康の第十子徳川頼宣が御厨地方を支配していて、家康の御殿を杉中(今の吾妻神社附近)に造営するに当たり、後に紀州の殿様となった頼宣は、浅間神社の社領を安堵し、神馬を寄進し、京都天満宮より道真公の神霊を勧請して合祀した。

室町時代より江戸時代にかけて各種各様さまざまの宗教的な講なるものが全国に拡がり、人々は寄り集まり貯金をして、お金が貯まると神社仏閣に詣でることが流行して、そのうちでもお伊勢講と富士講が最たるものであった。富士山に度重ねて登山すれば、身も心も清まり、浄土に近づくものと信じられた。

登山に当たり関東よりの登山者は必ず新橋浅間神社に詣で、祓禊を受けた後、清冽な流れの水で禊をし、そのまま滝ヶ原や五本松を経て御殿場口から登山するか、又は旧御殿場より杉原を通り高根を経ての須走道をとり、須走浅間神社に詣で、ここでお祓いと禊を受け、須走登山道を登山する講もあった。

又、当時の下山は御殿場口の砂走を一気につっ走る痛快さを楽しみ、後御殿場に泊まるのが通常であった。

関西よりの登山者は、富士宮浅間神社に参詣し、身も心も清めた上、富士宮口より登山するを常とした。そこで新橋浅間神社が東表口参道宮と言われ、富士宮の浅間神社が西表口参道宮と名付けられていたのである。

 富士の登山熱は明治・大正・昭和と年代毎に盛んとなり、先達に導かれた道者(登山者)が白装束に腰の鈴をチャリンチャリン鳴らしつつ「お山は晴天、六根清浄」と唱えつつ、列をつくって登山する姿は装観であった。

明治になり東海道線の開通は、益々御殿場口の登山を盛んにし、登山期には駅も神社も道者で溢れ、軒田の広場からレールの上を走る鉄道馬車が馬車道を須走まで客を満載して走り、何十台と言う普通の馬車は御殿場口の馬返しまでのピストン輸送で土煙はもうもうとあがりにぎわいに涌いた。

 戦後は、スバルラインや富士周遊道や新五合目と、富士の中腹まで車で登ることが出来、登山も容易になったため下界の旅館やみやげ物屋のさびれを尻目に、ピーク時の夜には八合目あたりの電光型登山道は切れ目なく灯火をつけて登山するのがよく見える。昔も今も富士に対する信仰やあこがれは変わりない。

明治・大正・昭和初期の富士講の数は実に多く、大正の玉垣補修に当たって、先を争って寄進を申し出ており、今尚その面影を玉垣にそのまま残している。

祭り 

祭りは元来氏子が神様をお招きし、もてなし歓を尽くして貰うことである。
新橋浅間神社の祭りは10月9日を本日とし、この日を皮切りに、御殿場や小山地方一円の村落の氏神の祭が、1ヶ月余りも続く。祭の当日は、御輿は最初に禰宜地の家に立ち寄り、昼食の歓待を受けた後、渡御しつつ氏子の家々の有様を御覧の上、二つの当番組の家でもてなしを受けられる。駅南は範囲が広いため、青年団が御輿を担いで突走る姿は壮観である。

富士山の爆発の最も繁く激しかったのは、桓武天皇を初めとする、西暦1400年代の5回、清和天皇を初めとする、西暦1500年代の4回で、そのいずれもが、噴出した溶岩は数十粁にも及び、本栖湖や河口湖や果ては猿橋までも達し、本栖湖や河口湖の水は沸騰し、江戸にまで黒灰が降下し、砂礫は雨と降り十日余りも続いたうえ、その間大地震はおこり、雷鳴暴雨がおこり、草木は枯れ果て、動物の死するは数知れなかった。

神楽舞(獅子舞)

西暦934年(朱雀天皇 承平7年)11月、またも富士は大爆発をし河口湖は埋まり、このときも熔岩は三島に達した。そこで国司は富士宮浅間神社、御厨浅間神社、須走浅間神社に、富士を慰め怒りを静める祈祷を行うべく命じた。禰宜の鈴木氏は、江梨の本拠だけでなく、熊野より後援を求め、富士への一心不乱の祈りをささげると共に、「神楽舞」を奉納して、山霊を慰めまつり、お静まりを願った。これが代々氏子青年に受け継がれ、神々へ奉納の「矢車の舞」と「剣の舞」が現代にまでも及び、四百数十年もの伝統となり神に奉仕すると共に、毎年旧正月15日・16日の2日間区内を廻り、氏子の安全と危を払うを例とするようになった。

稚児舞 

 御水尾天皇寛永4年(1627)、またも富士は大爆発をし、地震雷風が続き、火山礫は12日も降り続き、空は真黒な噴煙に覆われ、昼でも暗い日ばかりで江戸にも4日続いて黒灰が降った。
富士の霊を慰め静めるため、後援の熊野山伏の護摩の火の絶えることなく、祈る声は四方に響き、この時宮中の雅楽をとり入れ奉納した稚児舞の鈴の音は人々の心を慰め和ませた。

それから稚児舞の奉納は慣例となり明治23年より手を加え今の様式とし、6才から12才までの女児に依り「4人の舞」(四方拝)と「5人の舞」(鏡の舞)の二種が舞われ、稚児は氏子中より、9人の子女が選ばれ、舞のみでなく、御輿の渡御には行列して従うようになった。
又、昔は登山の道者達も、御神楽と称し稚児舞を奉納し、山を静めと登山の安全を祈願する習慣があった。

氏子入り

氏神様の御霊を宿して育った子供の感謝と、今後の無事成長を祈って、男児は31日、女児は33日ごろ、神々に初宮詣をする。

最近は百一夜のころ初宮詣をする家も多くなり、又、生後百二十日ごろにはお食初めと呼んで、初めて物を食べさせる式を行い、一生食物に困らぬよう、幸福に育つよう祈る習慣があった。

宝物殿

 貴重な文書が歴代毎に積重ねられていてこれの整理と解読は今後に待つ所が多い。

中でも特に貴重な文書は、毎年土用の晴天の日に、氏子総代と協議員が集まり、虫干しと確認の作業を行う。

お宮さんの七不思議

 神社の拝殿と奥殿を結ぶ延長線は、富士山頂に達し、南東に正殿と一の鳥居と二の鳥居を結ぶ線は、大湧谷を経て、伊豆諸島及び小笠原諸島を通り硫黄島に達する。
9月の長雨は20日も降り続くが、祭の前夜祭、又は当日にピタリと止み、この後この地方の祭は快晴に恵まれる。
みくりやの私雨は狭い時は、湯沢から森の腰まで、中位は市役所から永原附近まで、広いときは杉原から富士岡までの範囲に雨が降り、外側は快晴である。この私雨はお宮さんが常に中心である。
お宮さんの池はあらゆる淡水魚が住みつくが、うなぎは住みつかない。

池にかかる木之花橋(太鼓橋)ですべってころんでも怪我はしない。
獅子舞の獅子は普通は男だが、お宮さんのお獅子は可憐な乙女である。
獅子舞の「剣の舞」での囃し唄の中に、有識者でも解くことの出来ない上代語の意味不明の言葉が交じっている。

木の花名水(このはなめいすい)

 新橋浅間神社は、「木之花咲耶毘売命(このはなさくやひめのみこと)」という女神が祀られており、この女神は大山津見神(おおやまつものかみ)を父とし、木の花のように麗しく華やかに栄え勝り、富士山そのものとして崇められています。燃え熾る炎の中で三人の御子を無事出産したことから、安産の神、子育ての神として御厨一帯の子安講の主神でもあります。境内には85mの地下から300L/分の湧水が自噴しており、地元新橋区民による公募で『木の花名水』と命名されました。最近では多くの人達に親しまれ、毎日水汲みに来社され飲料用に持ち帰られています。

関連記事

  1. 御殿場温故知新

  2. 御殿場ハイキングコース

  1. 御殿場高原 時之栖

  2. 東山旧岸邸

  3. 秩父宮記念公園

  4. 富士山樹空の森

  5. 富士スピードウェイ

  1. 登録されている記事はございません。

おすすめ広告

Translate »