日本一過酷な駅伝レース 「富士登山駅伝競走大会」観戦マニュアル※2023年は8月6日に開催

日本一過酷な駅伝レース 「富士登山駅伝競走大会」観戦マニュアル※2023年は8月6日に開催

毎年、8月の第1日曜日に開催されている御殿場名物イベント「秩父宮記念 富士登山駅伝競走大会」。6名のランナーが、タスキを繋ぎながら御殿場市内から富士山山頂までを往復する、国内でももっとも過酷な駅伝大会です。ここでは、この駅伝大会の観戦を120%楽しむために知っておくべき知識をお届けしましょう。

駅伝大会の全体像を知る

富士登山駅伝競走大会は、6名1組の選手たちが御殿場市内から富士山山頂までの区間を往復する、標高差3,000m以上、気温差20度以上の過酷な駅伝レースとして知られています。大正2年に「富士登山競走大会」というマラソン大会として始まり、世界大戦の前後で中止となっていた時期を除き、今日まで毎年開催されてきました。
「富士登山競走大会」の第一回目。
戦後、復活第1回大会の開催時(昭和51年)には38チームだった参加数も、いまや130チームもの規模に。じつは2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三が立ち上げた駅伝大会ということもあり、近年益々、この山岳駅伝レースに注目が集まっているのです。

コーススケジュール
よってかっさい 7:30頃~
スタート 8:00
第一中継所(青少年自然の家) 8:24頃~
太郎坊 往路9:01頃~/復路 11:08頃~
二合八勺 往路9:28頃~/復路 11:01頃~
山頂折り返し(浅間神社奥宮) 10:44頃~
ゴール(陸上競技場) 11:46頃~

交通や天候の都合により、スタートとゴールの位置は開催年ごとに変わってきましたが、2015年以降は、御殿場駅からスタートして富士山山頂で折り返し御殿場市陸上競技場でゴールするという、全長47.93km、標高差3,258mのコースに設定されています。
御殿場駅前に特設されたスタートゲート。
スターターは若林洋平市長。

朝8時、合図とともに一斉に走り出す1区の選手たち。

御殿場駅から青少年交流の家に至る1区~3区は緩やかな勾配の舗装路が続きますが、4区が始まる太郎坊からは未舗装路の登山道に。標高を上げるほど傾斜がきつくなっていき、山頂を通過する6区では傾斜35度以上の急勾配が待ち受けています。急坂を登り切った6区の選手たちは、頂上の浅間神社で検印を押してもらい、折り返して下山を開始します。

標高1,050mにある馬返しで襷を受け取る3区の選手。
富士山山頂を目指して坂を駆け上がる4区の選手たち。
6区の選手は山頂の浅間神社で検印をもらって折り返します。

七合五勺から太郎坊までの7区と8区が、「砂走り」と呼ばれるこの大会のハイライト。選手たちが火山噴出物・スコリアが堆積した斜面を猛スピードで駆け降りる、大迫力のレースが繰り広げられます。最後は、御殿場市陸上競技場でゴール。トップチームは、毎年、4時間を切る速さでゴールゲートをくぐり抜けています。2018年は、自衛隊の部では滝ケ原自衛隊、一般の部ではトヨタスポーツマンクラブが首位を勝ち取り、滝ケ原自衛隊が総合優勝を飾りました。

首位でゴールしたのは、2015年より連覇を続けている滝ケ原自衛隊。
総合優勝の喜びを噛みしめる滝ケ原駐屯地の自衛隊員。
一般の部で首位のトヨタスポーツマンクラブ。

レースの見どころ
スタート、砂走り、ゴールともにドラマがあり見ごたえがあるのですが、一番おすすめなのは二合八勺で襷渡しと砂走りのシーンを観戦すること。二合八勺までは、太郎坊から歩いて1時間30分ほどでたどり付けます。ただし、当日は9:00~12:00の間で県道152号線の県道富士公園太郎坊線・富士山スカイライン周遊区間が出入禁止となるので、観戦するためには早めに現地入りする必要があります。

迫力満点な「砂走り」。勢いのあまり転倒する選手も多い。

観戦+αのお楽しみ
全国から大勢の選手が集まるこの駅伝大会の観戦と一緒に楽しめることがいくつかあります。まずは、スタート会場のすぐ横に展開する「朝食屋台」。御殿場市内の飲食店が朝の6時頃から出店して飲食物を提供するので、スタート地点で待機している選手たちや運営スタッフ、観客が移動せずに朝食を摂ることができます。

2018年の開催時には、スタート前に、市内の幼稚園児たちが御厨地区オリジナルソング『よってかっさい』に合わせて踊って選手たちにエールを送るという催しも。緊張感漂うスタート前の空気を和ませてくれました。

早朝から応援に駆け付けた人々で賑わう朝食屋台。
朝食屋台に出店していた、渡辺ハム工房のホットドッグ。
地元の食材を使った手作り料理を提供する出店ブース。
スタート前、選手たちに踊ってエールを送る地元の幼稚園児たち。

ゴールの御殿場市陸上競技場では、午前から「富士山サマースポーツフェスティバル」が開催されていて、乗馬やタグラグビーの体験コーナー、スポーツスタンプラリー、登山駅伝グッズや軽食などを販売する出店ブースが展開し、駅伝大会を盛り上げます。この日は、御殿場駅前が歩行者天国となる夏祭りも開催され、朝から晩まで楽しみが尽きない一日になります。

富士山サマースポーツフェスティバルでは、物販や飲食、ワークショップなどのブースが出店。
タグラグビーの体験会。
グランドに設置された平均台やあん馬などで無邪気に体を動かす子どもたち。

駅伝大会の歴史を知る

このレースが歩んできた歴史を知れば、観戦をより深く楽しむことができます。ここからは、レースの歴史を語るうえで欠かせないキーパーソンに注目しながら、その歴史についてご紹介しましょう。

キーパーソン1
金栗四三
富士登山駅伝競走大会は、日本人初のオリンピアンであるマラソン選手・金栗四三氏が大正2年(1913年)に立ち上げたマラソン大会「富士登山競走大会」がルーツになっています。

明治45年(1912年)7月に日本代表としてオリンピックのストックホルム大会に出場した金栗四三氏。当時のマラソン世界記録を3度も塗り替えるという功績を残すだけでなく、高地トレーニングを先駆けて始めたり、箱根駅伝とこの駅伝大会を創設したりと、日本のマラソン文化を築いてきたパイオニア的存在として知られています。

第1回富士登山競走大会のスタート地点は御殿場口の太郎坊、ゴール地点は富士山山頂に設定されました。八合目以降は傾斜が35度以上あるという非常に過酷なレース状況下のレースながら、全国から1142名もの応募が殺到。結果、選抜された14名の選手が日本一を競い合いました。
昭和51年(1976年)7月に行われた富士登山マラソン復活第1回大会。スターターは金栗四三氏。

大正6年(1917年)に第2回が開催され、大正11年(1922年)には頂上往復マラソンとして開催されたのですが、一人の選手が頂上までの往復をするのはあまりに危険で過酷すぎるということで、翌年の大正12年からは駅伝方式に。以降はこの方式が継承され、今日に至ります。

戦争が激しくなり、昭和13年(1938年)を最後にこの駅伝大会は中止を余儀なくされました。終戦後、昭和26年(1951年)に全国学生マラソン連盟の主催で復活をしたものの、運営の困難さが理由で昭和30年(1955年)にふたたび終焉を迎えます。この駅伝大会が本格的に復活を遂げたのは、二度目の開催中止から20年の時を経た昭和51年(1976年)のこと。翌年の第2回大会からは、大会名の冠に「金栗四三杯」が付き、優勝チームに金栗杯が与えられるようになりました。

キーパーソン2
秩父宮雍仁親王殿下、勢津子妃殿下
大正天皇の第二皇子である秩父宮雍仁親王殿下は、勢津子妃殿下とともに富士山や御殿場をこよなく愛されていました。戦後、殿下は御殿場にある御別邸において療養生活を送られていたそうで、勢津子妃殿下は殿下が薨去された後も、夏期を中心に御別邸で生活をされていたようです。

昭和62年(1987年)の夏、勢津子妃殿下が御殿場に御滞在の折、妃殿下と御殿場陸上競技協会の芹澤正治会長との間で富士登山駅伝の話題で盛り上がり、そのご縁が実って、平成2年(1990年)に「秩父宮記念賜杯」が完成します。以降、大会の冠に「秩父宮杯」が加えられることになりました。

総合優勝したチームに与えられる、秩父宮家御紋入りの秩父宮記念賜杯。

大会名の冠に「秩父宮杯」が付いてからも参加チーム数は右肩上がりに増え続け、平成15年(2003年)には100チームを突破。全国から集まる自衛隊のチームが上位を占めるようになり、平成17年以降は「自衛隊の部」「一般の部」という二部制に。2018年には130チームを数え、その隆盛はとどまるところを知りません。

100年以上の長い時を経て、多くの人々の関わりのもと続けられてきた日本一過酷な駅伝大会。その奥深さを感じながら、日本一の山で繰り広げられる白熱の戦いをぜひ生で観戦してみてくださいね。

写真◎飯田昴寛、御殿場市
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